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化学と工業誌「ケミストの趣味」欄

 いろいろないきさつがあって、化学と工業誌から「ケミストの趣味」欄への寄稿依頼が届いた。断りにくい事情(とある場面で快く引き受けてしまった)もあり、何とか原稿を作成してみた。しかし、草稿を読み直して、どうしても化工誌に寄稿する気にはなれない。私の世代はもはや、化学会の公的な機関誌に、論説や最新の学術記事など正面から化学会を先導する記事を執筆すべき年頃である。このような少々くだけた内容を写真入りで化工誌1ページをつかって世に出すのはあまりに気が引けた。思案のあげく、編集委員長と担当者の方に丁重な詫び状を送り、寄稿を辞退させていただいた。本当に申し訳けなく思っている。

 その詫び状の中に、「せいぜい研究室HPの片隅に載せるぐらいの内容….」と言い訳を述べた気がするので、お詫びの気持ちも込め、その草稿をHPに載せることにした。本当は封印したかったのだが…。

 


 とある先生の依頼で本稿の執筆を引き受けることとなった。恥をさらすつもりでの執筆なので、できれば読み飛ばして欲しいというのが切なる思いであるが、もしかすれば若い人への何らかのメッセージにつながるかもしれない。私ぐらい「研究一筋で趣味も持たず(??)」の人間がはたして本稿の執筆者に適しているかはさておいて、とりあえず書き始めてみることとした。
 

ロッククライミング:


 もともと熱くなりやすい性格ではあったが、20代のころ、ロッククライミングにはまり、穂高岳や剣岳にある国内有数のクライミングルートを登りまくった。もっとも「◯◯岳◯○壁初登攀」などというプロのレベルではなく、書店で手に入る「岩場ルート図集」を片手に、難易度の指標(3級=標準、4級=難、5級=非常に難)をたよりに既存のルートを登攀していた。4級ルートぐらいを選ぶと、大自然の中でスリリングな登攀を十分に満喫できた。それでも岩壁に向かい、トップ(先頭でザイル(=登攀用ロープ)を牽引する役)で登るときはそれなりの覚悟が必要であった。岩登りでは登りより下りのほうが技術的にはるかに難しく、一度取り付いたら後に戻る事は許されない。登りきる以外に選択肢はないのである。少々大げさだが、全合成ルートを計画し、まさにその合成に着手しようという研究者と似た心境になる。始めたら途中で放棄はできない。したがって、困難なルートを抜けきった時は、全合成を完成したような快感を疑似体験できる。

 八ヶ岳の冬期岩壁登攀に挑んだときであった。冬期ルートは資料に乏しく、様子がよくわからないまま取り付いたが、なんとか難所も克服し、稜線にたどりつくまであとわずかとなった。油断をして、中間地点の確保も取らぬままトップでザイルを引き上げ、あと本当にわずかというところまでたどり着いたが、そこで前進不可能となった。右手も左手も第一関節までしか岩壁にかかっていない。体重はわずかに後方(空中)に引かれており、どちらかの手を離せば墜落する。登ることも下ることもできない。あと5分もすれば力尽きる。下で確保するパートナーまでの距離は15m程度で、手を離せば、パートナーの確保地点を支点に30mは滑落する計算。重傷は免れない。全合成の最後のステップで油断をし、たわいもなく思える反応についつい手持ちの化合物の大半を仕込んでしまった。しかし反応は進行しない。今晩中に解決しなければ、この化合物は分解する。まさにそんな状況であった。

 試行錯誤で体重を上下左右に移動し、何とか片手を離せる体制を探そうとするが、どうにもならない。パートナーにも「落ちるぞー!」と絶叫し、腕力が尽きる、おそらく最後の数秒程度の悪あがき状態に入った。もうだめだと思ったその時、目の前の岩肌にわずかな岩の出っ張りを発見し、私はおもわずその出っ張りにかじりついた。歯の力で体重を支えたのである。するとどうだろう。歯の力は意外にも強く、これで初めて片手を岩壁から離すことが出来た。その手を上に伸ばすと、有り難いことに手のひらでつかまれる安定なホールド(手がかり)があった。これで窮地を脱した。おおきな修羅場だった。

 このかじりついても攀じ登る精神は、その後の私の研究人生におおいに役立ったと思う。
 

将棋:


 これも決してプロレベルではない。せいぜいアマチュア3段程度だろうか。その程度のレベルではあるが、しかしこの知的ゲームには人生の縮図や研究に通ずるものを感じる。序盤=情報収集・検索能力と構想力、中盤=創造性、終盤=解析力や理詰めで考える能力が問われ、どれかが欠落しても二流にしかなれない点で研究に通じるものがある。プロは序盤でもしばしば定跡をくつがえす。これは一流の研究者がしばしば常識を覆すことと同じである。精神力が重要で、「勝てそうもない」と思った相手には必ず負ける。「できっこない」と思った研究テーマは必ずうまくいかないのと同じである。一局の勝負で数十回自分の手番が回ってくる。しかしその時その時の局面に、常に好手や絶妙手が潜んでいる訳ではない。むしろ平凡な手しか存在しない局面や、どの手を指し手も悪くなる局面が多く、思い通りにはいかないものである。しかし、一局の対局の中で、必ずある確率で、好手や絶妙手の潜んだ局面が現れる。上級者はそこを見逃さずに、そこで一気に局面を有利にする。初心者はみすみすそれを見逃してしまうのである。




 研究は思い通りにはいかないものである。しかし長い研究人生の中では、素晴らしい成果につながる好手や絶妙手の潜んだ局面に必ず出あうはずだ。研究者はそこを見過ごしてはならない。成果がなかなか出ず悶々と過ごしている学生さんも、まだまだ君たちの経験は浅い。経験を積む中でチャンスは誰にも平等に現れる。その一瞬を逃さぬよう、日々の努力を続けてほしい。